媒体としてのファッション(1)

本文を書くまでに、長い時間を費やしたことを最初に告白しておきたい。多分それは10年、いや15年くらいの時間がかかっているのではないだろうか。もちろん時間をかければ偉いわけでもない。逆にいえばそれだけ能力が足りていないのである。しかしながら、15年前に私はこの文章を書くとは思っていなかった。いや、ここ数日まで書くとはまるで思っていなかった。時間というより「経験」が足りなかったのであろう。それに「服」と、一定の距離があったからこそ書かれた文章であり、自分としては書かれるべき文章だったのだと思う。

私は現在そこまで服は好きではないと思う。学生時代より服を買っていないし、正直なところ愛もない。ただ、たまにいい靴を履いたり、服を試着すると楽しいなと思うことはある。普遍的なレヴェルだと思う。ただ服というか、ファッションは媒体としての可能性があると思っている。ここに私は最近注目している。本題に入る前に少し脱線しよう。でもこれは必要なことだ。

私は「服」から10年程度離れてみて、映画を見たりアニメーション批評に時間をかけるようになった。特にアニメーションを批評的に考えることに時間を費やしていたように思える。私の専門は哲学でも文学でもないのであるが、周りの人に助けられ幸いにも同人誌に批評を書き続けることができており、あるヒントに気づくことができた。

それは、アニメーションの媒体性である。石岡良治が見出しているようにアニメーションは統合された芸術だ。アニメーションそのものには媒体に限定されていない。映像芸術でいえば、映画はもともと映画館でかかるものであり、映画館という媒体に属するものであった。それが現在Netflixまで姿形を変容しているということは今議論することではない。アニメーションは、テレビアニメはもちろんのこと、映画の姿を借りた劇場版アニメや、CMのアニメーション、パチンコ、インディペンデントアニメーション、と主だったものをあげただけでもこれだけある。そして実写映画にも3DCGが使われており、純粋無垢なアニメーションといった形をしていなくても、私たちはいつどんなところでもアニメーションを視聴する環境にいることがわかるであろう。

「『君の名は。』も評判がよいようですが、わたくしは、アニメは原則として映画の範疇に加えていません。あれは映画によく似た何ものかではあると思いますが、よく似ているという点で、映画とは本質的に異なる何ものかなのです」蓮實重彦(2020)「ショットとは何か」群像5号、講談社

ほとんどアニメーションを見ない蓮實重彦が、クリティカルなことをいっている。確かに運動論的に考えれば「映画」としてのアニメーションを見ること/語ることは可能であろう。「ジョン・フォードと投げること」のように、「山田尚子と投げること」のような主題論的な読み解きも可能である。しかし、それはアニメーションを映画の枠に閉じ込めて考えてしまっているとも考えられないだろうか。アニメは映画ではない。アニメはアニメなのである。また、ゼロ年代に流行ったように社会反映論的な読みに関しても、あまりにも社会に寄り添いすぎて、アニメーションそれ自体が視野に入らないなんてことも、なきにしもあらずだろう。しかし、この両者はともに必要であり、まったくゼロにすべきではないだろう。アニメは映画の要素も兼ね備えているし、社会の中に存在している。内在批評と社会反映論の二項対立ではなく、両者を往復するような柔軟性が必要なのである。

もっといえばテレビアニメ。オープニング/エンディングアニメーション、エンドカードと幅広い読みが可能であるし、『彼氏彼女の事情』(1998-1999)が示唆的であるが、声優役を本人として予告に出していたり、実写映像をエンディングに使うことも批評的な行いだろう。もともとアニメーションそれ自体が、キャラクターや美術背景などのオブジェクトを複数に組み合わせて、ひとつの画面が出来上がっているように、アニメーションは柔軟に複数の媒体を横断し往復する。読み方も幾重にも広がっていく可能性を保有する。

前置きが長くなってしまったが、アニメの媒体性に似ているひとつが「ファッション」だと思っている。ファッションは服はもちろんのこと、髪型、眼鏡、メイク、香水、ネイル、インテリア、音楽、カフェ、食、ストリート、ライフスタイル、さらには振る舞い…と無限大に広がっていく。また、芸術/娯楽(遊び)的な見方も、芸術ではない、娯楽だ。娯楽ではない、芸術だ——このような不毛な議論も多々見られる。もちろん、芸術/娯楽ではなく、芸術⇄娯楽の互いを往復して新たな価値を生み出すことができる媒体である。ハイファッション、ストリートの対立も同じように考えられる(ここにはUNIQLOなどのファストファッションも含まれるであろう)。ファッションは自分の意志をぱっと見で判断される、外見で批評されることにより、アニメーションよりずっと個人的なことなのかもしれない。しかし、ファッションそれ自体も社会的なことに絶えず左右されるし、とても個人的なことが社会的なものに繋がっている媒体だ。

また消費の問題もあるだろう。流行は絶えず変わっていき、ファッショニスタになればなるほど毎期新しい服を求める。自分はひとりなのに物量が増え、結果的に着ない服が出てくる。そして、それを古着屋やオークションなどに出品して金銭を得る。ただし、この構造は何もファッションだけのものではない。無類の音楽好きや読書家なども心当たりがあるだろう。しかし、ファッションがよく槍玉に上げられるのは何故なのだろうか? 

「ファッション批評がない」、「アニメ批評がない」これは聞き飽きた言葉だ。ファッション批評もアニメ批評もないわけではない。あるところにはある。ただ、求めている人が少ないだけなのだろう。reviewはあるけれど、critiqueが数少ないといったところだろうか。どちらもユーチューバーが紹介している動画すらある時代である。プレゼンスキルがものを言う媒体なので、批評的であるかは別として場はあるのである。ファッションもまた、アニメーション同様に枠を飛び越えて媒体を横断し、そして往復する。互いに影響を与え合う存在だ。先に書いたように、メディアに合わせて批評も柔軟なものが求められてくるのではないだろうか。

例えば雑誌のポパイは、元の姿形を捨て去ってカルチャー誌へ変貌することで、雑誌の延命処置をした。逆にハイファッションを取り扱っていたHUgEは、内容ではなく本のサイズを変えるなどの試行錯誤の末、今では姿を消している。「オシャレ感」と「身近さ」がポパイを成功に繋げた。一見、凡庸ともとられる導入が成功した稀な例かもしれないが、これはよく考えなければならないことである。しかし、ポパイには批評がない。ポパイに批評が備われば、ポパイを読む100人のうち何人かは批評に興味を持つのでないだろうか。批評雑誌としての手軽さは、批評再生塾の3期性を中心に制作されているLOCUSTが理想ではないかと感じている。

locust.booth.pm

ロカストは旅行誌の顔をした批評誌である。ライトな手触りから、ディープな批評への招待。そして、各批評家のキャラクター性の確立といい、往復性でいえばピカイチだと思う。実際にメンバーが批評する現場にいってみたくなるし、批評そのものも面白い。場所性と批評という媒体が、密接に絡み合い相乗効果を生み出している。その土地の匂い、歩道、天気、食、生活する人々…。個人的な経験が批評として形を変えて現れる。

ファッションの消費構造と戦うにはやはりこのような物質性がものをいうのではないのであろうか。これを例えば服や食などに限定することなく、何か別の手段で読み手や見るものに経験と似た感覚を与える——もちろんここには批評を読むといった可能性だけに限定されないだろう。いづれも多木(2000*1がいうような触覚的受容を読み手/聞き手/見るものに与える必要がある。

ここまで書いておいて、果たして何をすればいいのであろうという結論が出ていない。カジュアルな雑誌もあれば、批評誌、ラジオ、ユーチューブ、いくらでも方法はあるが、ファッションの可能性を引き出すには結論が出てこない。そんなことから(1)としているのだけど。ただ、勢いだけは何故かある。いつになるかわからないけど、また書くでしょう。

群像 2020年 05 月号 [雑誌]

群像 2020年 05 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/04/07
  • メディア: 雑誌
 

*1:多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫)参照のこと。